デアゴスティーニ安土城 「築城つれづれ」

風に吹かれて 〜こころのおもむくままに・・・
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文集「950キロのかけはし」のこと(4)阪神淡路大震災+カラオケ
文集作成にあたり、18年前の阪神淡路大震災で被害に
遭われた方々にも原稿を依頼しました
文集を通じて僅かでも気持ちの共有ができれば・・という
強い思いからです
そして10名のみなさんから寄稿いただきました
18年もの間、忘れ去ることもできず心の底にくすぶり続け
て今日まで形に出来なかった想い、あるいは今まで誰にも
話せなかった心の底の澱の様なもの、そのすべてが原稿
用紙に一気に吐き出された感があり、当時の様子や現在
の心境など、どの文面からも重く深いものがひしひしと伝
わってきます

一篇だけですがここに紹介したいと思います

一月十七日・・あの日起こった出来事を、私は今まで多くの
人から当時の様子や状況、その凄まじさ、そして当時の苦
労を聞かれてきた。でも、私はいつも多くは語らなかった。
と言うより語れなかったし、語りたくなかった。
何故ならあの震災で私が見てきたもの、経験して感じてき
たものすべて・・。簡単に言葉で表すことなんて出来ない。
あの日の光景、恐怖、悲しみ、絶望、それと共に感じた人と
のつながり、温かさと温もり。その全ては経験した人にしか
わからない。伝えたい思いが強ければ強い程、言葉には表
せない。

人は全てを失い丸裸になった時こそ、その本質が浮き彫り
にされる。震災で人生が終わったと感じたあの日、未来を
失い何も考えられなくなったあの日。人々が今まで築き上
げてきた名誉、地位、学歴、財産、そしてプライド。一体そ
れらに何の意味があるのだろう。
全てを失った人々に残される大切なもの、それは人としての
人格、人間性、モラル、そして心・・。それらに勝るものなん
てないと私はあの時、強く感じた。良くも悪くも全てむき出し
になった人々を肌で感じ、そして本当に大切なものは何か、
自分の人生を見つめ直した。

あれから十八年の月日がたった今、あの日の感情、感じた
人々の温もりが私の中で生き続け、そこで生まれた価値観
で今の私が生きている。
これが唯一、私が言葉にして言えること。

そして、命を救われた私が、震災の経験を通してこれからす
るべきことは、我が子にあの時感じたひとの温もりを伝えて
行くこと。それを与えられる人間に育てて行くこと。
私自身がその温もりを出会った人々に伝えて行くこと。世の
中に当たり前なんてない。
全ての事に感謝し、今を大切に生きること・・。・・(後略)・・

       (神戸市東灘区で被災された方の文です)
   
      ************

発刊から三ヶ月余り、1.000部作成しましたが、おかげさまで
手元にはもう数冊しか残っていません
より多くの人たちに牡鹿半島を知っていただくため増刷を計画
しています

*タイトルの「950キロのかけはし」の950キロとは阪神間か
 ら 牡鹿半島までを車で走った時の走行距離のことです

                          終わります

最近「一人カラオケ」にはまっています
フリータイムで平均5〜6時間、
コーラ一杯で休みなくおらび続けております
それで料金1050円
安すぎ! です
陽水・みゆき・拓郎・いきもの・古い演歌などを歌いますが、
好きな曲は2回3回と繰り返し歌います
先日、全国ランキングでなんと1位!!
曲名は「小さき負傷者たちのために」中島みゆきの曲です
でも、私の前には2人しか歌っていなかったようで・・
いい曲なんですけどね〜
(よろしければYouTubeでどうぞ・・)
近々カラオケ関連でアップしてみようかと思っています
少し勇気が要りますが・・
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文集「950キロのかけはし」のこと(3)と残酷な子ども
続きです

その前に・・
先日、ハッピーの散歩をしていた時のこと、
道端で子供たちの声がしています
小学校低学年の男の子が2人と女の子が2人、それにもうひとり
保育園前くらいの女の子

何やらもめています
すこし歩みを緩めて聞くとはなしに聞いていると、
「妹なんかいらんかったんよ・・・
    本当は弟の方がよかってん・・・」
と女の子が言い放っています
ほかの3人も少しためらいながらも同調し、ちいさな女の子はかわい
そうに、ひとり足元をみつめてべそをかいています
そのうち、その子を残してほかの子供たちはどこかへ駆けて行ってし
まいました
一緒に遊ぶにはちっちゃすぎて足でまといだったのでしょう

そのまま通り過ぎしばらく散歩を続けていたのですがどこからか子供
の激しい泣き声が聞こえてきます、近づいてみると先の女の子です
お母さんの腕をものすごい勢いで何度もなんども振り払い、天をもつ
んざかんばかりの声でダダをこね、もうお母さんは困り果てています
当方もハッピーでなんとか笑顔になってもらおうと試みたのですが・・
・・無駄でした
いきさつを話すわけにもいかず少し心残りのまま引き上げました
時として、子供は残酷な生き物!
でも、子供はこれくらいのことすぐに忘れてしまうんでしょうけどね

「ハッピー満2歳」女の子です

さて、文集の続きです
子供たちの作文のほかにも、地元漁師さんたちの当時の様子なども
掲載しています

『ゴォーと地鳴りと共に今まで経験したことのない激しい揺れに襲わ
れました。船の上には立っていられず、膝をついて揺れが収まるの
を待つしかありませんでした。目の前の自宅は、マッチ箱でも動かす
ように激しく揺れ、窓ガラスが割れ瓦が落ちスギ花粉が飛散し山が
黄色い炎を出しているように見えました。』

『この日、私は漁師仲間と船を沖合に出して津波が収まるのを待つ
「沖だし」をしました。危険と隣り合わせで一晩過ごし帰港した時には
生まれ育った浜が何もなくなっていました。』

『あの日を境に私達の生活は一変しました。ありとあらゆる物が津波
に飲み込まれ、あたり前にあった物が無という状態、正直途方にくれ
ました。』

『以前のような子供たちの声、姿が見えずさみしい限りである。震災
前、夕方毎日のように自転車で浜を一回りする。すると集落の人達
が同じように浜に出ていて雑談し、夕食が遅れることもしばしば。今
仮設から夕方浜を回っても誰とも会うことはなく、波の音だけで浜は
静まりかえっている。』

漁師さんの当時の事をほんの一部抜粋して紹介しました
ここで文面のすべてを、また寄せられたすべてのメッセージを紹介す
ることはできませんが、どの原稿も一様に文末は今後の抱負や希望
で結んばれていました
そして今、寄せられたメッセージ通り、みなさんのふんばりで少しづつ
少しづつ、でも、確実に前進していると感じます

  ふんばれ! 牡鹿の大人たち
    がんばれ!牡鹿の子どもたち

あと一回、最後は阪神淡路大震災の記事についての感想を書きた
いと思っております

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文集「950キロのかけはし」のこと(2)
 東日本大震災復興支援文集
 「950キロのかけはし」 
  -あすをみつめて-

子供たちの作文の続きです

その日は雪が降ったせいもあり、とても寒くて
私も死ぬかと思いました。
これは夢なのかと思
いました。でも目を
さますと夢ではなく、現実
におこったこ
とでした。
これからどうなるのか。
私は心配でたまりませ
んでした。
しかし下ばかり向いていても何も変
わり
ません。
私達にできることは、毎日笑顔
でいることです。
(中略)

今回の地震や津波で多くのことを学びました。
同時に怖い思いもしましたがそれ
は生きている
からこそ感じられる感情だ
と思います。

これからたくさんの辛いことがあるかもしれま
せんが、家族がいれば乗り越えら
れる気がしま
す。
家族や地域の人と力を合わせて復興へ向
てがんばっていきます。
      (中1)

 

ぜったい野球の練習をいっぱいがんばって、
校生になったら宮城代表で甲子園球場に
いきた
いと思います。
          (小4)


僕は空手が大好きです。これからもたくさん練
習して、来年は全国大会で優勝できるようにが
んばります。           (小3)

 

牡鹿の子供たちの作文をほんの一部ですが抜粋
して載せました。
健気で素直な気持ちが伝わってきます。

                             つづけます

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文集「950キロのかけはし」のこと(1)

牡鹿半島(宮城県石巻市)と阪神間の交流を軸にした文集です
ほんの一部ですが抜粋して紹介したいと思います

避難所の中学校には近くにある保育園の園児もいました。親と離れ離れ
でこの地震が来て泣き叫ぶ子ども達を全員無事に避難させた先生を見
た時、ただただ凄いなと思いました。洗濯物は手洗い、水も電気も無いと
いう状況の中、元気に笑う子ども達と接するうちに、自分の小さな頃から
の夢を叶えたいという気持ちが強くなりました。
最近、震災の記憶が薄れてきている中、今でも心配して連絡を下さる自
衛隊の方、今も復興活動をしてくれているボランティアの方、そして亡くな
った友人のためにも今頑張らなければいけない事を頑張ろうと思います。
みんなでがんばろうね!
私は夢であってほしい震災の中ではっきり見えた自分の夢を叶えます。
                                        (高3)

なつ休みがおわってぼくは、あたらしい学校いない小学校にいきました。
すこしきんちょうしたけど、いっぱいともだちができました。
ぼくは、おおきくなったらお父さんやおじいちゃんみたいなりょうしになりた
いです。                                   (小6)

大きくなったら、みんなにぶんぼうぐや、いろいろなものをはいきゅうした
いです。そうすると、ちいきの人たちがたすかります。
なので、いっぱいべんきょうをして、ボランティアさんみたいになります。
                                        (小2)

今、私は小学校を卒業して中学生になりました。今でもボランティアの方
が浜に来ていろいろな作業をしています。私はみんなに感謝しています。
私を励ましてくれた先生方、一緒に助け合って生きた地域の皆さんや友
達。毎日浜の復旧や物資を運んでくださった自衛隊のみなさん。
そして私達のそばにいてくれた家族、本当に感謝しきれないほどに感謝
しています。
復興に向けて、私はみんなに元気を与えることや、福祉活動など、色々
な事に挑戦していきたいと思います。そして、復興に向けて頑張ってみな
さんのために役に立ちたいと思います。                (中1)


                 「子供たちはすごい!」ですね
                                   つづけます

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牡鹿半島訪問記(4)+震災から2年
今日で震災から2年と1日
おととい昨日と震災関連の特番をかなり見ましたが、時が経つ
につれて事態はますます深刻になっているという印象を強く受
けました
明日への一歩を踏み出す取っ掛かりすら見い出せないまま苦
しんでおられる人たちが数多くある現実、心が痛みました

      死者  15,882人
  行方不明者   2,668人
  震災関連死   2,303人
この数の分だけ消えることのない家族の悲しみがあります

   避難生活者 315,000人
この数の分だけ先の見えない「不安」がここにはあります

TVも通常番組に戻り、もう来年の3.11までは大きく取り上げら
れることもないのでしょうが被災された方々の苦難はこれからも
変わらず続きます
我々に出来ることは限られていますが、せめて気持ちだけでも
これから先もずっと被災地を向いていたいものだと思います


牡鹿半島訪問記(4)続き

今回、牡鹿を巡ってみて特に復旧が遅れていると感じた谷川浜
(ヤガワハマ)のことを少し書いてみます
ここは主に「海鞘(ほや)」の養殖を生業としている浜です

地元の漁師さん3人で養殖筏に取り付ける道具を作っておられた
のですが「以前なら悪くなった所だけの修復交換で済んでいたん
ですけど、今はそのすべてを一から加工していかなければならな
いんです、色々な道具は買い揃えていかなければならないし、
とにかく何も無いところからのスタートですから時間も掛かります
それに人手も足りない・・」と話しておられました

ただでさえ風が強く寒い中、お話をお聞きしている内にだんだん日
が陰って来て、風はさらに強くなるし、とにかく寒かったです
膝をガクガクさせながらその話をしたところ、「ここは日の短い冬期
は1時過ぎになると太陽が山の向こうに隠れてしまいます、昔から
『半日浜』」と呼ばれています」と少し淋しそうに笑いながら話して下
さいました

右側の建物は津波で閉校になってしまった谷川小学校

さすが牡鹿半島、この標識よく見かけました
谷川でも夜になると鹿がウロウロしているとのことでした

中央部分に町長さん(区長さん?)の家が見えます
この家を残してあとはすべて流されてしまったとのことでした
右下の白いところは水門、すぐ海です
「湾内に沈んでいるがれきを引き上げるのは大変でしたでしょうね」
とお聞きしましたところ、返ってきた答えは、
「引き波ですべて持って行かれて海底にはもう何も残ってませんでした」
という返事、ケタ外れの大津波、その凄まじさが想像できます

津波で更地になってしまった浜には牡鹿半島の各浜からがれきが持ち
込まれ渦高く積まれてありました(昨年10月の写真ですが一緒でした)

昨年10月に伺った時よりは少し元気になっておられるようだったので少し
安心しましたが、広い浜からあたりを見渡しても3人のほかに人影がなか
った事が少し気になっています

中途半端ですが、牡鹿半島の訪問記を一応終わります
次は文集「950キロのかけはし」の本文の抜粋などを感想を交えて書い
てみようかと考えています

 
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牡鹿半島訪問記(3)現状
牡鹿訪問のあと市街地に立ち寄りました
大震災から2年が経とうとしていますが、今更ながらその傷痕の深さと
復興への道のりの険しさを強く感じました
以下、市街地の今の様子です
カメラを向けることに少なからず抵抗もありましたがこれが現実です




津波の爪痕がそのまま、あの時から時間が止まっています
男の子の三輪車、自転車、通学用のヘルメットなどが散乱したままです

石巻市湊地区学校給食共同調理場

津波の跡がくっきりと見て取れます

全く手付かずです

阪神淡路大震災の場合、2年経った頃には一応表面上はとっくに「日常」が
戻っていました
ここはもう2年が過ぎようとしているのにまだこんな状態です
「復興」はまだまだ先の先という印象です

                          あと1回書きます
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牡鹿半島訪問記(2)信仰心
蛤浜、桃浦、月浦、侍浜、荻浜、小積浜、
牧浜、竹浜、狐崎浜、福貴浦、鹿立浜、
小網倉浜、谷川浜、鮫浦、野々浜・・・
すべて宮城県の牡鹿半島の漁港名です(ほんの一部ですが・・)
 
各浜各浦には小高いところに必ず「神」が祀ってあります
津波で石段などが流された「社」も数多く、谷川浜(ヤガワ)などは
石の鳥居が水の勢いで根元から折れてしまっていました
しかし、どの浜も地元の漁師さんとボランティアの手で修復され、
元通りとはいきませんが震災後もしっかりと守られています





谷川浜八幡神社の鳥居とボランティアのみなさんが修復した石段
かなり大変だったようです(この写真だけは昨年10月のもの)

車で移動中に撮ったもの

野仏?元々屋根があったのだろうと思われます
流されていたものを拾い集めて収めてあるのかもしれません
 


大災害に遭ったにもかかわらず、地元の人たちの「神」を敬う敬虔な心、
そこにはいささかの揺ぎも感じませんでした

  『生かされた者として、顔を上げ、
  常に思いやりの心を持ち、
  強く、正しく、たくましく生きていかなければなりません。』
  『苦境の中にあっても、天を恨まず、運命に耐え、
  助け合って生きてゆくことが、私たちの使命です。』
   
これはちょうど2年前、
震災直後に行われた気仙沼の中学校の卒業式での言葉です
体育館の後ろには着の身着のままで避難された人たちも大勢おられて、
みなに見守られながらのすばらしい「答辞」でした

                                    
                                あと一回つづけます    

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牡鹿半島訪問記(1)学校編
2月の8〜10日、牡鹿半島(宮城県石巻)へ行ってきました
最大の目的は、文集『「950キロのかけはし』を寄稿して下さったみな
さんにどこよりも早くお届けする」ことでした
「グループねこの手」の代表と私との2人で行ったのですが、とにかく
時間に追われながらの慌ただしい三日間でした

石巻市役所で教育長にお目に掛かったあと、漁港の漁師や学校など
を回りました
以下、その時の様子です

<荻浜小学校>

<荻浜小学校>
震災後児童数が激減、現在3年生が1名、5年生が4名
みんな女の子だそうです
ポツポツとお話をされる校長先生の寂しそうな顔が忘れられません




<東浜小学校>
震災前は生徒数30人ほどだったらしいのですが、現在は22名
元気で明るい子どもたちでした
放課後、文集贈呈の時間を設けて下さり、1年生から順に名前を
読み上げてもらい一人ずつ文集を手渡しました

渡し終えたあとに思いもかけない「サプライズ!!」が・・
お礼にと、伝統の獅子舞「獅子風流(ししふり)」を全校生徒で披露
してくれたのです
この「ししふり」、入学式や卒業式など特別な時だけ行うもので、
最上級の「おもてなし」だそうです
太鼓の響き、笛の音、可愛いお囃子の声、それに合わせて勇壮に
ユーモラスに舞う獅子、そして獅子のまわりをはやし飛び跳ねる子
供たちの踊り、今でもあの時の様子が目に浮かびます
本当に感激しました、そして「特上」の思い出になりました

右上に立てかけてあるのは、文集のトビラに使用したもののパネル
早速飾ってくださいました(これは「ねこの手」代表の奥さんの発案)
各学校に差し上げたのですがどこでもたいへんに喜ばれました




<荻浜保育所>児童数8名
荻浜の施設が津波でやられてしまい対岸に位置する東浜小学校
の一部を間借りして開設しておりました




<荻浜中学校>

震災後は体育館を避難所として開放し、一時100人以上が生活して
いたとのことでした
直後は18人の児童がいたのですが、その後次々と転校し続け今回
訪れてみると10名になっていました
見送る生徒たちや先生方はさぞさみしい思いをされたことでしょう
転校を余儀なくされた子供たちはもっと辛かったに違いありません
文集に寄稿して下さったのは現在1年生のお2人(震災当時5年生)
(素直な文が胸を打ちます)
学校に到着した時はちょうど生徒会の集会中で、直接渡すのは無理
だろうと諦めかけていましたが先生のお計らいで本人に直接手渡しす
ることが出来ました、本当に感謝しております



<谷川小学校>
「全国で一番海に近い小学校」だったそうですが、このたびの大津波で
閉校になってしまいました



<校庭からの眺め>

<閉校の記念碑>
悲しい現実です                   
                           つづけます           

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復興支援文集「950キロのかけはし」完成


この度、東日本大震災復興支援グループ、『グループねこの手』編纂よる文集
『950キロのかけはし』が完成しました
宮城県石巻市、牡鹿半島にある小さな漁村と阪神間の交流を綴った300ページ
を超える冊子です
地元の漁師さんの震災当日の様子や今後のこと、それに阪神淡路大震災で
被災された方々の記録も併せて掲載しております

しかし、なんといっても主役は子供たち、かなりの部分を子供たちの作文が
占めています、原稿用紙に書いてもらったものを撮影しそのまま載せました
一文字一文字が心に響き、活字では表現できない暖かさがここにはあります


牡鹿半島の実情を多くの皆様に知っていただくため本文集をお分けします
ご希望の方は下記までご連絡ください、お送りします(文集送料共無料)


naoki_jin@leto.eonet.ne.jp
              まで


「グループねこの手」ブログ
http://ameblo.jp/nekonote-ashiya/


追記
安土城は石垣がまだ和時計は全く手付かず、困った・・
デアゴめ、今度は可愛いロボット出すようですね〜 
可愛い上にロボゼロよりかなりの優れもの・・欲しい・・!!
u-tubeの動画でご覧あれ

牡鹿の様子は近々アップします              
   
         
                          

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牡鹿のこと3
宮城県牡鹿郡女川町野乃浜「マイルーム野乃浜」 ここが宿泊先、
ほとんどすべての客が女川原子力発電所で働く人たち
狭い部屋に狭い風呂、娯楽施設などまったくなく、作業員の「ねぐら」といった
感じの宿でした 

3階の部屋の左手の眺め、正面は道を隔ててすぐ海が広がっていました
手前の木立の向こうから山の斜面にかけて家が立ち並んでいたとのこと

震災前はガソリンスタンド、日用品店、酒屋があったとのことですが、
今は何も残っていません、堤防もガードレールもまだ当時のままです

2階から3階に上がる階段に津波の高さを示した線が貼ってありました
2011.3.11.  14:46地震発生 15:30津波襲来と書いてあります
この宿も谷川小学校同様、かなり高台にあるんですけど・・
その津波の高さをなんとか理解しようとしましたが、いまだに出来ません

夕食時、食堂のまかないの方と話をしている内、その方の仮設にお邪魔
する、ということになりました
翌朝、ご主人(たくましくてかっこいい漁師さん)も交えて、津波のこと、
ご家族のこと、亡くなられた方たちのこと、これからのこと、などなど、
貴重なお話を聞かせていただきました

東浜小学校
ここは津波の被害は免れ、生徒も全員無事だったそうですが、
長期間被災された方々の避難所となり、また災害対策本部に充てられて
いたとのことでした
震災直後に行われた入学式、
新一年生は女の子1人だったそうです
それでも紅白の幕を張り、地元の獅子舞などで新入生を迎えています
立派な入学式です、u-tubeで観ました
余談ですが、
現在、ここの子供たちの作文も含めた文集「950キロのかけはし」
作成中(当方補佐)、来年の早い時期に完成予定です

牡鹿半島を離れ、最後にすこし石巻中心部をまわりました
港にある倉庫は、がれきこそ取り除かれてはいたものの、壊れたまま、
中はがらんとしていました
高台の日和山から街を見渡すとあちこちにがれきの山が目につき、
訪れた人たちの口からは、震災の話しか聞こえてきませんでした
駅前通りの商店街では入口を板戸で打ち付けた店を数多く見かけました
結構人通りはありましたが、その半数以上はボランティア(多分)

門脇小学校
紅白歌合戦で長渕剛が「ひとつ」を熱唱したところです
まだあのままでした

後ろを振り返るとコンビニ?が壊れたまま立っていました
辺り一面360度、雑草が生え放題、復興までの道のりの長さを想いました

来春、もう一度同じコースをめぐって、今回お会いした人たちともう一度会い
その後のお話をお聞きしようと思っています
                                   おわり 
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