デアゴスティーニ安土城 「築城つれづれ」

風に吹かれて 〜こころのおもむくままに・・・
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「阪神淡路大震災」のこと(その8)最終回
(震災ブログについて)
被災者でもない自分に、はたしてそのことを書く資格があるのだろうか?
傍観者の興味本位のレポートになっていやしないか、
書き進むにつれてそういった感情がだんだん強くなり、途中どうしたものかとかなり悩みました。

なかでも私をいちばん躊躇させたのは震災当日の様子です。
救助活動や消火活動をしているような場面に遭遇しなかったからとは言え、
ただ歩きまわっていただけの自分、何の力にもなれなかった自分、
果たしてあのとき自分にやれることは本当になかったのだろうかと・・・。

でもあの時はみんな避難していたようだったし・・、
すれ違う男たちはただ歩いているだけだったし・・、
と自分に言い訳しながらも、あの時の光景が心にひっかかり、
いまだに自問しつづけています。
あの日一日の体験は心の中にしまったまま封印しておくべきかどうか、さんざん迷いました。

でも15年という節目の年、
この機を逸するとそういった機会ももうそうそうないだろうと思い直し、
この際敢えて、当日も含め思い出せる事すべてを書いてしまおうと「覚悟」を決めて
今日に至りました。

心の中をすべて出し切った今、
長い間心の奥に深く沈んでいた「澱」の様なものが多少落ちくれたような気がしています。

         「しあわせ運べるように」
      地震にも負けない 強い心をもって
      亡くなった方々の分も 毎日を大切に生きて行こう
      傷ついた神戸を 元の姿にもどそう
      支えあう心と 明日への希望を胸に
      響きわたれ ぼくたちの歌
      生まれ変わる 神戸のまちに
      届けたい わたしたちの歌 
      しあわせ運べるように

     この「鉛」の様なブログにお付き合い下さったみなさま
                本当にありがとうございました。



最後になりましたが、
震災直後から出社し、数日間復旧に奔走し忙殺されていた、当時専務だった人の
社内報に寄せられた記事を紹介して、このブログを終わりたいと思います。
当時大いに役立ったもの
携帯ラジオ
大型懐中電灯(単1乾電池5ダース以上)
飲料水
携帯コンロとガスボンベ
石油ストーブ、カイロ
軍手(大量にある方がよい)
防水シート
自転車
ミニバイク
家屋配線図など
 
                        長田区にそびえ立つ「鉄人28号」
                                    (完) 
       
                              
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「阪神淡路大震災」のこと(その7)記憶の断片
   今回は今まで書いてきたことのほかに印象残っていることを断片的ですが
   その「かけら」をかき集めて思いつくまま書いてみたいと思います。

(連帯感)
震災から数カ月は社長重役を含め社員全員がものすごい連帯感で結ばれていた様な気がします。
ふだんは無口で何を考えているのかさっぱりつかめなかった様な人がよく話す、エラそうにしていた役職の人が「おつかれさん」「ごくろうさん」とみんなに気軽に声を掛ける、重い物の移動など、だれかれなしに率先して手伝う、
あの時の結束力はすごかったなぁ〜、と今でも思います。
そしてそこには誰一人としていやな奴もいないし憎たらしい奴もおらん、
もちろん争いもない、「みんないいやつばかり」
そう!逆境のなかにあっても社内中が前向きであたたかな雰囲気で包まれていました。
「心がひとつになる」とは、まさにあのときのあの状態を言うのでしょう。
15年経ったいまでも、当時がなつかしく思い出されます。

(震災ルック)
震災から数日経った頃から少しづつ倒壊した家屋の撤去作業がはじまり、街は至るところユンボクレーン、ショベル、ダンプなどであふれていました。
「引き倒す」「押し潰す」「挟み潰す」硬い物は「噛み砕く」その残骸を大型ダンプに投げ入れる、通常なら埃を軽減するために周囲を幕で囲うなどして、しかも水をかけながらの作業ですが、この時期そんな悠長な事はしておりませんでしたので、街中かなり埃っぽく、通勤も含め街行く人たちは防寒具にマスク、Gパンに運動靴といった出で立ちで我が身を守っていました。
寒い中、代行バスの到着を辛抱強く待つ長蛇の列は震災ルックであふれていました。

(廃棄物処理)
神戸市の西部山側にある処理場に向かうダンプカーは廃棄物を積んだまま何キロにもわたり停滞、のちに聞いた話ではピーク時は朝積んでも昼までに空にするのがやっとだったそうです。
私も数回この道路の対向車線側を走った事がありましたが、大型ダンプで埋め尽くされておりました。

(東京支店との会話)
震災から5日目くらいだったと思うのですが、支店長から電話がかかってきました。
会話の中身はおおむね、こうです。「あぁ 君かい、そっち大変だったみたいだね」、
そのあと二言三言あって、
「さっそくだけどさぁー、あの仕事こっちでやるからさぁー、フィルム送ってくんない?」、「どうせそっちじゃやれないんだろう、すぐに送ってよ、たのむよぉ〜」、「わかりました」と電話を切ったものの、こちらと東京とのあまりの落差にどこか釈然としないものを感じたのを憶えています。

(チャリティコンサート)
震災から数日経った頃、会社のすぐ山側の小学校に「加藤登紀子」さんが慰問に来られました。
体育館の冷えた板敷に、登紀子さんを取り囲むようにして座りその歌声を聞きました。
私たちと同じ目線で生ギター一本で語りかけるように歌う登紀子さん、何人も泣いていました。
(ほとんど被害のなかった私など、そこにいてはいけなかったのかもしれません)。
忘れられない想い出です。

(あともう一つ)
震災の翌年の9月、ポートアイランドという人工島にある神戸ワールド記念ホールというところで復興支援コンサートというのがありました。
(泉谷が音頭をとったらしい)
このコンサート、神戸市が被災者だけに通知、抽選でペア入場券を配布するというものでした。
運よく当たった被災者(地震の瞬間を2行で見事に表したあの女性)に便乗し一緒に行きましたが、
それがなんと、どういう訳か最前列!
最初TVカメラが3台ほどありましたが、始まるとすぐに移動してくれて、最高のポジションで好きな音楽を浴びるように聴く事が出来ました。
(思い返してみると、被災者招待のコンサートだったはずなのに
          駐車場は他府県ナンバーが半数だったような気がします)
 
 その時の出演者
  泉谷しげる
  伊勢正三
  稲垣潤一
  大江千里
  大友康平
  小田和正
  坂崎幸之助
  白井貴子
  高中正義
  浜田省吾
  山本潤子
  吉田拓郎 
などでした。
 
 その時のパンフレット(粗悪紙に1色刷りのざっとしたものです)

 この事も忘れられない思い出です。

  次回で終わりにします。 
   (地震時に役立つものや、その後の神戸のことなどを書いてみます)






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「阪神淡路大震災」のこと(その6)社内報より
   今回は当時勤めていた会社の「社内報」 に寄せられた「地震・その瞬間」
   手を加えず、原文のままお伝えしたいと思います。

*瞬時にして2階が体の上に落ちてきた。2人とも動けず、
  もう助からないと死を考えた。間一髪で近所の方に救出してもらった。

*何が起こったのかわからないまま「これは逃げないと!」と思い、
   布団を頭からかぶって家族と逃げました。 

*タンスの下敷きになった。でも、生きてます。

*ドーンと寝込みを突き上げられ、上からタンスが倒れ、2人下敷きになる。
  悲鳴の中、懐中電灯を探し灯のなかで無事を確かめ合い恐怖で震えていた。

*1階がつぶれて両親が中に埋まっていると聞いた時はゾッとしたが、
   とにかく家族全員 怪我なくほっとした。

*暗闇の中今までにないはげしいゆれ、家の前の阪神高速が倒れている??
  しばらくは信じられなかった。

*タテ揺れ横揺れ、すさまじいガラスの割れる音、家のきしむ音、
  隣の家が道までころがっていた。

*揺れている間に体がとなりの部屋へ、後から家へ帰って見ると、
   タンスの角が机の上にぐさりと刺さっていた。

*瞬間、地震と分かったがなんの動きもとれないほどの揺れだった。
  外に出ると燃えている家の灰が降っていた。

*真っ暗な部屋で、倒れる家具の中をどう逃げたか分からないが、妻子とともに
  ベビーベッドに身を寄せていた。
  割れた窓ガラス越しに幾筋もの火事の煙、布団は家財に埋もれ枕のあった所は、
  テレビとビデオデッキが占領していた。

*揺れがおさまって家は大丈夫だと思い、外へ出て見ると大きく傾いていた。

*家がちぎれるかと思った。家を出て見ると上の方の家が燃えていました。

*すさまじい音がし、縦横と揺れ、外は瓦や木の折れる音がして、
   明るくなって外を見ると家々が倒壊していた。

*異様な音がしてきた。とともに窓越しに空が一瞬光った。
  何ごとかと思った瞬間、強烈な横揺れに襲われた。

*食器棚の中の食器がバラバラ落ちるのがスローモーションのようだった。
  妻は「何、これ!」と言ったが返事が出来なかった。

*一瞬何が起こったのか分からない。目の前でミズヤ、タンスなどが倒れ、
   外で青光りが走ったような気がした。

*初めは何かがつっこんで来たと思った。火が怖くて外に出たが、
  すぐに倒壊した家の人の救出をした。

*家財は倒れ、部屋中がガラスと本の海と化した。
  まわりに液状化現象が出ていた。

*頭の上からテレビのリモコンが落ちて来て、
   思わずそれを手に持って逃げていました。

*寝ている所にタンスが倒れて、もう死んだと思いました。

*地震直後、額縁が手首に落ち、血を流しているのに熟睡してました。

        *********************

以上、主だったコメントを挙げてみましたが、文面からその凄さが伝わってきます。
烈震地に居を構えていた社員も少なからずおりましたが、
奇跡的に死亡した社員はおりませんでした。
ただ、家屋が全壊した者が13名、半壊が11名でした。
(内1名は生き埋めになり助け出されたのは翌々日でした)。

          震災直後の会社(社内報より)

もうひとつ、強烈に印象に残っている一文があります。
長田区で被災、家屋は全壊しその後仮設住宅暮らしを余儀なくされていた
当時20歳前後の女子社員の「その時」です。

「180度空が真っ赤になって私の生まれ育った町が崩壊した
              あの日の真っ赤な月を一生忘れない」。

たった2行の文章ですが、
この短い文面の中にすべてが凝縮されている気がします。
「大自然の脅威」、「それに抗えない人間のもろさ、はかなさ」・・・
この文、今でも鮮烈に記憶しています。

  鉛の様なブログで申し訳ありません、 
 
 でももう少し書かせて下さい。(あと2回ほど)
  (おかげで「安土城」たまってきてます、えらいことです)        
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「阪神淡路大震災」のこと(その5)ガレキの街を抜けて・・
          今回は通勤途上での忘れられない光景や、
                     被災した人たちの話などを書きたいと思っています。


(倒壊現場)
三宮から東灘まであちこちで倒壊した建物が道路まで倒れ込んで道を塞ぎ、住宅の多くはその家の生活がそっくりそのままぶちまけられ白日の下に晒されてしまっているといった感じでした。
人間の粘膜質の部分と言うか、、あまり触れられたくない箇所をもはや抵抗することも叶わないままやむなく、はらわたごとさらけ出している(これが自分の家なら多分そう感じたでしょう)そんな印象を受けました。
たびたび埃まみれになってころがっている「ぬいぐるみ」やマスコットなどを目にしましたが、そのたびごとに本当に心が痛みました。



    震災特集号から転写しました(右中央にぬいぐるみが見えます)

(ボウリング場)
ボウリング場がありました、どうにか倒壊は免れてはいましたが、上の階が抜け落ちていました。
低い方へ転がって行ったのでしょう、瓦礫にまみれてボールがあちらに10個こちらに10個といった状態でころがっていました。
ここは震災の3日前、仕事のあと新春ボウリング大会を行ったボウリング場です。
(ワタクシその時やたら調子が良くてハイゲーム賞を取って狂喜乱舞した正にその場所です)。
3日前まではそこに確かに存在していたのに・・・、本当に明日の事はわからないものです。

(証言1)
東灘で被災し家屋が全壊した社員の話
震災の夜、横倒しになっていた冷蔵庫の中の肉を倒壊した自分の家の瓦礫で焼いて
家族みんなで食べたとのことでした、何という悲しい話でしょう。
(証言2)
東灘で被災し家屋が半壊した社員の話
「そらぁもうごっついゆれてビックリして飛び起きたんやけど、はじめはなんのこっちゃわからんかった、ダンプが突っ込んできたんかとおもた、揺れがおさまったあと嫁はんが窓開けて叫んどるねん」
『お父ちゃん!!お向かいの家無いよ〜』
かなり大きな家だったらしいですが、建物が古かったために瓦の重みに耐えられなかったんだろう
といっておりました。
また、前日串カツパーティをしていたとのことで、そこらじゅう油まみれだったそうです。
(証言3)
比較的揺れの少なかった兵庫で被災、現在勤めている会社の仲間の話(足の指を骨折)
地震直後とにかく早く家から出なければ…と大慌てで引き戸を開けようとしたが、敷居が下がってしまっていてビクともしない、10分ほど頑張ってみたがどうしても開かない。
足元には割れたガラスが散乱していたため暗いなか靴下を探しだし、それを履いている時に裏に窓があることに気付き、その窓から難なく外に出たとのこと。
「いま考えればアホみたいな話やけど、そのときはにパニクってて・・」と言っていました。

       まだまだ書き足りません、 あと少し続けます
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「阪神淡路大震災」のこと(その4)出社

「出社」震災3日目

当時勤めていた会社は神戸市東灘区魚崎というところで、三宮と西宮の中間ぐらいに位置しまさに烈震の中心部でした。
震災後最初の出勤だったにもかかわらず、いまその道中がどういうものだったのかはほとんど覚えていません。
多分、あとからあとからこれでもかというほど衝撃的な現実を見せつけられたからかも知れません。

どうにかこうにか会社にたどり着いたのは昼前だったと思います。
幸い社屋は壁面のひび割れ程度で致命的な被害はうけていませんでした。
会社の駐車場を隔てそのすぐ前に建っていた文化住宅は跡形も無く全壊、
そのすぐ向こうの電機会社は倒壊寸前(下の写真)でした。
ある程度の予測はしていたものの、やはり衝撃でした。

     会社から電柱2本分くらいしか離れていない場所です
   私も時々このようにして腰をかがめて通っていました
   (この写真は新聞社が出した震災特集号の転写です)
2階の事務所に入ると薄明りの中、社長、専務はじめ数人の社員が石油ストーブを囲んでいました。
私たちを見ると口々に「ごくろうさん!」と声を掛けてくれ嬉しかった事を憶えています。
2階の室内は前日までにある程度まで片づけて置いたとのことで、さほどのことはありませんでしたが、1階の現場では何十トンもある機械がすべて動き回っていて工具類が散乱、
3階の現場も同様であらゆるものが落下し散乱していて「もうどこから手を付けていいものやら・・」といったありさまでした。
当時、私が管理していた2万枚以上あるフィルムの棚もほとんど倒れていてそれは惨憺たるものでした。
ただ4階の食堂は基本机とイスだけでしたのですぐ整理が出来たらしく、
近所の人たちの避難所に充てられていました。
(その日のことはこれぐらいしか思い出せません)。


「通勤」その後
JR、阪神、阪急、山陽、神戸電鉄、神戸高速すべてがストップしていましたので、春ごろまでは朝5時起き、途中比較的近くに住んでいた仲間3人を拾っての通勤でした。
市内への乗り入れは自粛して欲しいとのお達しでしたが、遠方の我々にはこれより他に手段がなかったのです。

最初の何日間かは神戸市の北部六甲山の裏から六甲山を貫いて神戸の中心部へ抜ける「新神戸トンネル」を通って通勤していたのですが、これがとにかく想像を絶する大渋滞で会社に着くのが昼前といった状態でした。
トンネル内は埃っぽく、いつもサイレンの音が響き渡っていました。
でも不思議な事にその車の姿を見かけたことはほとんどありませんでした。
多分身動き取れない状態だったのでしょう。
会社に着いてすることといえば、薄暗くて冷え切った室内を3〜4時間片付けるだけです。
そして少し早めに退社してまた渋滞の中に飛び込むのです。これを数日続けました。

何日間かはこのルートで通勤していましたが、あまりにも酷い状況でしたので、その後六甲山越えで行く事にしました。
1,000m足らずの山なのですが、ここからは神戸の街並みや港が眼下に手に取るように見え、遠く大阪、堺方面まで見渡せる本来なら景勝地なのですがこの時期、車を降りて眺めた記憶はありません、多分そんな余裕など無かったのでしょう。
帰りも逆ルートの山越えです、
六甲山裏を下りきったあたりに数軒のラブホテルがあり夜になるとテレビ局の車両がその駐車場を占領していました。
鏡張りのまわるベッドの元でどんな会話がなされていたのでしょう、その横を通るたびにその事を笑い合いながら通り抜けていました。
(結局数日後、この新神戸トンネルは一般車両乗り入れ禁止になりました。救援物資と救急、消防の専用ルートに充てられたのです)。

「通勤」に関してはこんなところです。
ちなみにすべての交通機関が完全復旧するまでには半年近くかかったと思います。

この写真、震災から数日が経ったころ、
「会社周辺も含めた被害状況を記録しておいて欲しい」
という会社からの要請で写した中の1枚です。
2階の事務所の窓から標準レンズで撮りました。

[震災と写真について]
余談になりますが・・・
昔から写真が好きで、趣味でよく撮っていましたし、車にはいつも一眼レフを載せていました。(子供を撮るのが特に好きでした)。
でも写真の真髄は「報道写真」と「記念写真」それ以外は幾ら理屈を付けても所詮遊び、と考えていました。
でも震災の時期は一度もカメラを手にしませんでした。
震災当日からその後の数カ月、それこそ街中に私の望んでいた被写体であふれかえっていたのですが、どうしてもその気になれませんでした。
このこと、今でも「これでよかったのだ」と思っています。
                 
  このあと深くこころに刻まれている光景などを
     「日」を定めずに書いてゆきたいと思っています。
           

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「阪神淡路大震災」のこと(当日その3中央区)
<長田区から三宮方面へ>

三宮あたりの揺れは長田区以上の激震だったようで、大きなビルがいくつも倒壊していました。
もうどの建物がまっすぐでどの建物が傾いているのかさえ分からなくなるような状態で、自分の
平行感覚が麻痺してしまった様な感じでした。
ちょうど遊園地のマジックハウスに入っている様な、そんな感覚です。

どうしても安否の確認をしたい身内がいましたので、とりあえず市役所へ行きました。
旧庁舎は上部の階が押し潰されて酷い状態でしたが、新庁舎に被害はありませんでした。
非常灯だけの暗い中、走り回る消防隊員や職員の声、赤ちゃんの泣き声、毛布にくるまった被災
者同士の話し声などが広い館内に響きわたり、もうただただごったがえしていました。
市役所では何の情報も得られないまま、そのあと近くの小学校にも行きましたが、結局、安否は
確認できませんでした。(その後、本人の連絡で無事がわかったのですが・・・)

庁舎から小学校までの間に田崎真珠か何かのショールームがあり、壊れかけた建物の前には
ガラスの破片やガレキの上にかなりの数の紺色のあの宝石ケースが投げ捨てられころがって
おり、中身はすべてカラッポでした。ほんとうに悲しくて恐ろしい光景でした。

その後少し街中を歩いたのですが、商店街も飲み屋街も生田神社も、もう惨憺たるものでした。
特に三宮駅の山側にあった柏井ビルはかなり傾いて、いつ倒壊してもおかしくない状態でしたが、
この時点ではどうにか持ちこたえていました。
どこをどう歩いたかは忘れてしまいましたが、日が暮れた頃にもう一度この場所に戻り新神戸駅
方面を見ると、暗がりの中、片側4車線のメイン道路一杯に巨大な白っぽい幕が張られている、
「何でこんなところにこんな大きな幕が張ってあるんやろう」
と近づいてよく見るとそれは昼間に見た柏井ビルでした。
倒壊していたのです。これにはもう言葉を失いました。
地震から時間が経過していたせいでしょうか、中央区では消防団員の姿を多く見かけました。
人々の様子は長田区と同じで、やはりみなうつ向きかげんでした。

結局、震災当日のすべては半分夢の中の出来事の様でにわかに信じられず、
ただただ茫然として帰りました。

左は比較的揺れの少なかった兵庫区内にあった銀行
右上は東灘区にある阪神電車石屋川車庫
右下は阪神高速西宮付近

三宮にある生田神社(震災特集号から転写しました) 

一応、震災当日についてはこれですべて終わりです。

震災の翌日は交通規制がかけられていましたので、出社出来ませんでした。
会社へ行けたのは震災2日後の19日からでした。
このあともつづけて書きたいと思っています。





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「阪神淡路大震災」のこと(当日その2長田区)
震災当日のつづき
長田区です

昼頃、引き止める母を置いて神戸に出ました。
通常のルートは避け、遠回りではありましたが比較的道幅の広いルートを選びました。
神戸の中心部からはかなり西寄りの道です。
いつもと全く変わりなく走りつづけ、鈴蘭台という長田区・須磨区方面が俯瞰できる場所まで来
た時、空に向かって伸びている数本の大きな煙が見えました。
その煙は、もう太陽の光でさえさえぎってしまう程の大規模なものでした。
坂を下りきり、長田商店街まで来ましたが、ここで様子が一変、初めて被害の大きさを実感し
ました。アーケードは崩れ落ち傾いた店も数多く見られました、でも人影はありませんでした。
このあたりまで来ると煙であたりはうすぼんやりしていて街から色が消えてしまった、といった
感じで、上空を舞うヘリの音、そして遠くでサイレンの音だけがむなしく聞こえていました。
さらに漂う空気がきな臭かった事が印象に残っています。

車を道路わきに止め南の方へ歩き出したのですが、すれちがう人たちはみなうつ向きがげん
で走り回っている人など一人も見ませんでした。大自然の脅威にもうなすすべもなくただ茫然
と放心状態でただ歩いている、といった感じでした。
南へ向かってすぐビルの火災を目撃しましたが、消防車のすがたは無く、十数人の男たちが
ポケットに手を突っこんだまま燃え盛る火をただ眺めているだけでした。

さらに南に向かい歩き出しましたがJRの高架下あたりで人の話し声が聞こえてきます。
初めて聞いた人の声です。
近づいてみると驚いたことに、空のビールケースを2段に積んだ上に板ギレをおいてその上に
はビールが3本、3人の男が酒盛りをしているではありませんか。
近くに傾いた酒屋がありましたのでそこから持ち出したものだとすぐにわかりました。
かねてからそこで立ち飲みしていた常連か、ホームレスだったのでしょう。
失うもののない者強さというか、物の持つ価値のはかなさというか、今まで持っていた概念が
180度ひっくり返された思いで衝撃でした。
あの光景は今でも脳裏に強烈に焼き付いております。

そのあと少しだけ露地に入ってみましたが、1階部分が押し潰されている家を何軒もみました。
そこに取り残された人がいるのかどうかさえまったくわかりません、もはやそれはただ灰色の
大きなごみの山といった感じでした。
そんな状況なのにやはり人影はまばらで、人がいてもただ突っ立っているだけで後日TVでみ
たような住民による救助活動のような場面にはまったく出くわしませんでした。
その後この地域に住んでいた会社の人に聞いた話では、ほとんどの人たちは学校に避難して
いたようです、余震による倒壊を恐れて教室には入らず寒さに震えながらでも校庭で過ごした
人達も大勢いたとのことでした。

この付近はケミカルシューズの生産地でちいさなゴム工場がたくさんあり、あちらこちらから黒
煙が上がっていましたがここでも消防車の姿は1台も見ませんせんでした。
多分、住宅密集地の鷹取地区の方へ手を取られていたのでしょう。

焦げくさい灰色の町、うつむいたまま沈黙する人々、ヘリの音、遠くで聞こえるサイレンの音、
これが私の見た当日の長田区の印象です。

それと、もうひとつ強烈な印象を受けた風景があります。
それは、その日がゴミの収集日に当たっていたらしく、全壊してもはやゴミの山と化してしまっ
た家屋のすぐそばのゴミステーションに整然と置かれてあったゴミ袋です。
その光景を目にした時、もうやりきれない気持ちでいっぱいでした。

このワン公も被災者、どこか「ルル」に似ています

長田区の焼け跡です(震災特集号から転写しました)
 
この後、三宮方面へ向かいましたが、これも長文になりそうですので一応終了します。






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「阪神淡路大震災」のこと(当日その1)
 
早いものであの震災からもう15年が経ちます。
築城ブログを借りて、この際その時の様子を書き残しておこうと思いたちました。
安土城とは全く関連はありませんがいつものことです。
互助会のみなさん、少し長文になるとは思いますがよろしければお付き合いください。

その朝、大きな揺れで目が覚めました。
タテに揺れたのかヨコだったのかは判りませんでしたが、とにかく揺れで目が覚めたのです。
当時まだ存命中だった母がトイレに立ったその直後だったそうで、その瞬間は立っておれず
その場に座り込んでしまったといっておりました。

不思議な事に、地震の瞬間から空がしらみはじめるまでの数十分、あたりはひっそりと静まり
返り、今まで体験した事のないあきれるばかりの「静寂」の時間でした。
車の音も聞こえなければ、鳥の声すらない、町は沈黙し、完璧な「音のない世界」。
(あれほどの「静けさ」は後にも先にも経験した事がない)。
揺れの激しかった神戸駅あたりでもそういった状況だったようで、付近に住んでいた業者が同
じことを言っておりました。

地震の後すぐにテレビをつけたのですが、停電になっており映りません、ならばとラジオを引
っ張り出して聴くと「淡路島で大規模な地震が発生、数棟の建物が倒壊しけが人も出ている
模様」との放送を繰り返していました。

そののち、9時前だったと思うのですがやっと電気がつきました。
そしていきなり目に飛び込んできた映像、これはもう信じがたいものでした。
阪神高速道路が根元から横倒しになっているあの映像です。
最初、あまりの非日常的な映像に、何が映し出されているのか理解できませんでした。
繰り返し流されるその映像を観ているるうちにそのことが少しづつ現実味を帯びそのすさまじ
さを実感していった次第です。
また、当時勤めていた会社が倒壊場所からさほど遠くないところに位置していた事もあり、
「これはもうただ事ではない」という感を強く持ちました。
その後もたびたび震度4ほどの余震が起こりました。
深い地の底から響いてくる「ドーン、ドーン」という音「ゴオーッ、ゴオーッ」という地鳴り
にはもうすくみあがりました。
ちっぽけなわれわれ人間では抗えない「大宇宙、大自然の恐ろしさ」です。
すぐに犬小屋で震えていた犬(ジョイ)を居間に上げましたが、余震が来るたびに怯えきり、
顔面の短い毛までも総毛立たせて私に救いを求めてくるばかり。
(しかし当方の被害は、母の部屋の小型テレビが台から落ちたこと、皿が2枚ほど割れた事、
前の道路の水道管が破裂して、割れたアスファルトの間から水が噴き出していた事くらいで、
さしたることもありませんでした)。
息子など「停電やしもう一度寝よかな」と言っていたくらいのものでした。

しばらくして、近くに住んでいた会社の女子社員から「今日どうしましょう?」
と電話が掛って来ましたが、とてもそういう状況ではなかろうと感じましたので、
「自宅で待機しとこう」と告げ出社を断念。
その後もチャンネルをあちこち変えながら画面に釘づけ状態でした。

この時点では民放は被災地をヘリで中継しながらでもCMはしっかり流しておりました。
このころからビデオ録画を始めたのですが、数日後再生してみると、なんと激震の真っただ
中にあったさんちか「新春バーゲン」の゙派手なCMも流れていて、なんともやりきれない
むなしい気分にさせられたのを憶えています。
その後、さんちかが再開したのは数か月先だったと思います。
(さんちかとは神戸三宮の地下街のことです)。



(これが中継中に流れてきたCMです但し1回だけ)19日見直して見たら4回でした

徐々に被害状況が明らかになってくるにつれ、三宮・芦屋・西宮あたりが淡路以上にひどい状
態になっている事を知り、西宮に住んでいる友人に電話を掛けました。
     「どないやったー?」 に
     「アァー、見事にやられましたわー」 の返事、
このとき奇跡的?に通じた電話はその後すぐに不通になってしまいました。
(現在の様に携帯がある訳でもなく、その後の通信手段はたまたま通じる公衆電話を探し連絡
 を取るという方法でしたが、いつも長蛇の列でした)。

このあと車で神戸方面に下りて、その凄まじさを見せつけられるのですが、
明日以降書いて行きます。
        






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