デアゴスティーニ安土城 「築城つれづれ」

風に吹かれて 〜こころのおもむくままに・・・
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「阪神淡路大震災」のこと(その7)記憶の断片
   今回は今まで書いてきたことのほかに印象残っていることを断片的ですが
   その「かけら」をかき集めて思いつくまま書いてみたいと思います。

(連帯感)
震災から数カ月は社長重役を含め社員全員がものすごい連帯感で結ばれていた様な気がします。
ふだんは無口で何を考えているのかさっぱりつかめなかった様な人がよく話す、エラそうにしていた役職の人が「おつかれさん」「ごくろうさん」とみんなに気軽に声を掛ける、重い物の移動など、だれかれなしに率先して手伝う、
あの時の結束力はすごかったなぁ〜、と今でも思います。
そしてそこには誰一人としていやな奴もいないし憎たらしい奴もおらん、
もちろん争いもない、「みんないいやつばかり」
そう!逆境のなかにあっても社内中が前向きであたたかな雰囲気で包まれていました。
「心がひとつになる」とは、まさにあのときのあの状態を言うのでしょう。
15年経ったいまでも、当時がなつかしく思い出されます。

(震災ルック)
震災から数日経った頃から少しづつ倒壊した家屋の撤去作業がはじまり、街は至るところユンボクレーン、ショベル、ダンプなどであふれていました。
「引き倒す」「押し潰す」「挟み潰す」硬い物は「噛み砕く」その残骸を大型ダンプに投げ入れる、通常なら埃を軽減するために周囲を幕で囲うなどして、しかも水をかけながらの作業ですが、この時期そんな悠長な事はしておりませんでしたので、街中かなり埃っぽく、通勤も含め街行く人たちは防寒具にマスク、Gパンに運動靴といった出で立ちで我が身を守っていました。
寒い中、代行バスの到着を辛抱強く待つ長蛇の列は震災ルックであふれていました。

(廃棄物処理)
神戸市の西部山側にある処理場に向かうダンプカーは廃棄物を積んだまま何キロにもわたり停滞、のちに聞いた話ではピーク時は朝積んでも昼までに空にするのがやっとだったそうです。
私も数回この道路の対向車線側を走った事がありましたが、大型ダンプで埋め尽くされておりました。

(東京支店との会話)
震災から5日目くらいだったと思うのですが、支店長から電話がかかってきました。
会話の中身はおおむね、こうです。「あぁ 君かい、そっち大変だったみたいだね」、
そのあと二言三言あって、
「さっそくだけどさぁー、あの仕事こっちでやるからさぁー、フィルム送ってくんない?」、「どうせそっちじゃやれないんだろう、すぐに送ってよ、たのむよぉ〜」、「わかりました」と電話を切ったものの、こちらと東京とのあまりの落差にどこか釈然としないものを感じたのを憶えています。

(チャリティコンサート)
震災から数日経った頃、会社のすぐ山側の小学校に「加藤登紀子」さんが慰問に来られました。
体育館の冷えた板敷に、登紀子さんを取り囲むようにして座りその歌声を聞きました。
私たちと同じ目線で生ギター一本で語りかけるように歌う登紀子さん、何人も泣いていました。
(ほとんど被害のなかった私など、そこにいてはいけなかったのかもしれません)。
忘れられない想い出です。

(あともう一つ)
震災の翌年の9月、ポートアイランドという人工島にある神戸ワールド記念ホールというところで復興支援コンサートというのがありました。
(泉谷が音頭をとったらしい)
このコンサート、神戸市が被災者だけに通知、抽選でペア入場券を配布するというものでした。
運よく当たった被災者(地震の瞬間を2行で見事に表したあの女性)に便乗し一緒に行きましたが、
それがなんと、どういう訳か最前列!
最初TVカメラが3台ほどありましたが、始まるとすぐに移動してくれて、最高のポジションで好きな音楽を浴びるように聴く事が出来ました。
(思い返してみると、被災者招待のコンサートだったはずなのに
          駐車場は他府県ナンバーが半数だったような気がします)
 
 その時の出演者
  泉谷しげる
  伊勢正三
  稲垣潤一
  大江千里
  大友康平
  小田和正
  坂崎幸之助
  白井貴子
  高中正義
  浜田省吾
  山本潤子
  吉田拓郎 
などでした。
 
 その時のパンフレット(粗悪紙に1色刷りのざっとしたものです)

 この事も忘れられない思い出です。

  次回で終わりにします。 
   (地震時に役立つものや、その後の神戸のことなどを書いてみます)






| imajin | 「大震災」あれから15年 | comments(3) | trackbacks(0) | - |
山城守 (2010/01/26 1:01 PM)
imajinさん、こんにちは。
わたしは幸いにも親戚などでこの震災の被害にあった人はいなかったのでよかったのですが、当時パソコン通信(今や私語ですが)していたフォーラムの方が身障者で車いす生活をされていたのですが、ポーアイの高層マンションの上の方の階に住まわれていてエレベーターが動かないので管理人さんに背負われて階段を下りてきたと聞きました。
1階の集会所のような部屋で一ヶ月近く生活されたそうです。
自室の窓から対岸の立ち昇る煙と火柱を何とも言えない気持ちで見ていたと聞いて慰める言葉も見つかりませんでした。
震災一ヶ月後ぐらいの時にその人を励まそうとパソ通仲間数人で神戸まで行ったことがありましたが、青いシートがそこら中に掛けてあった光景が忘れられません。
横倒しになった高架道路、実は震災の前日に仕事で徳島に行った帰りに車で走っていたのです。
何とも言えない気持ちです。
今年は震災後15年という節目の年でもあり、例年になくテレビ等で取り上げられる回数も多かったように思いますが、町並みは大災害があったことが嘘のように見えますが、まだまだ被災者の心の傷は癒えていないのですね。
山城守 (2010/01/26 1:05 PM)
すみません。再度、山城守です。
先程のコメントを送信したあとで誤字に気づきました。
「私語」ではなくて「死語」ですね。
当時のパソ通の「ピー、ヒョロロー、ガー」という接続音が懐かしいです。
imajin (2010/01/27 7:56 PM)
こんばんわ山城守さま
返事が遅れてすみません

>自室の窓から対岸の立ち昇る煙と火柱を<
何もしてあげられないままただ祈るだけだったんでしょうねー、本当に辛かったでしょうねー

>実は震災の前日に仕事で徳島に行った帰りに車で走っていたのです。<
そうだったんですか。
私の友人もスキーに行った帰りにこの道で帰宅したそうです、パーキングで休んでいたら巻き込まれていたかも・・と言っていました
何か運命の様なものを感じてしまいますね

>被災者の心の傷は癒えていないのですね。<
神戸では「震災前」「震災後」という言葉を今でも当たり前のように使っています。
この言い方は今後も消えることはないでしょう

あと一回だけ書かせて下さいね

「ピー、ヒョロロー、ガー」
まったく!その通りの音でしたねー









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